動物園は午後に差し掛かって、子供は少なく、カップルがのんびりと公園内を歩いている。
手を握り続けて歩いている蓮は、象園の前で、象がのんびり鼻でリンゴを拾いあげて食べている姿を見て言った。
「ごめん、オレは全然食べなくても大丈夫だけど、佐保はおなかがすいただろう」
「いえ・・・(もはや色々な意味でおなか一杯で)」
「・・・やっぱり、オレとは、嫌、だよね・・・」
蓮は、なんとなく、肩を落として、しょんぼりキョーコに聞いた。
へ?と、佐保にはありえない間抜けな顔をして声を出しそうになって、
「英嗣さん?」
と、蓮を見上げた。
「佐保は楽しくないの?」
「いいえ、すごく、楽しいですよ?」
「さっき、すごく、嫌そうな顔をした」
「そんな事」
蓮がずっと手を繋いでいる。
それだけでキョーコは十分満たされているだけだった。
だから、両手を握って、持ち上げて、
「だって、今日は、英嗣さんにいっぱい触っているから、十分、おなかがいっぱい、なんです」
キョーコがそう言うと、蓮はまた、
「よかった・・・」
と安堵の息を吐きだした。
「英嗣さん、パンダ、見たい」
キョーコは蓮の手を引いて、パンダ園に向かった。
途中で、「あ」と言って、蓮は立ち止まって、足元を見た。
「たんぽぽだね」
タンポポの白い綿毛が、道の端に群生しているのが二人の目に飛び込む。
「こんな時期にも残っているんですね」
とキョーコが言った。
蓮が屈んで一つを摘んだ。立ち上がり、
「ふぅ」
と吹くと綿毛は一気に飛んで、ふわり、と、綿毛が空高く舞って行った。
背の高い蓮が高い位置で吹くと何か芸術のよう。
「きれい。綿毛全部飛んでいった。私も」
とキョーコがそれを見て言った。
「待って」
キョーコが屈もうとすると蓮が止めて、
「撮っていい?オレ、それも描く」
と言った。
「英嗣さんは本当に私ばかり。動物園に来たのに。私、動物じゃないのに・・・。飽きませんか?」
「全然?」
「そうですか?」
もう、と言うキョーコの膨らませる頬を見て
「そうだな、横顔がいいかな・・・」
と言った。
少し背景やアングルを考えているのか周囲を見回して、そこに立って、体の向きと顔の向きを指定してからキョーコにそれを吹くように言った。
分かりました、と言ったキョーコは、少しリハーサルのようにして角度を決めて見せると、蓮がウインクをしてオッケーを出した。
蓮はキョーコが摘むところから「ふぅ」と思い切り吹くところまで、携帯で動画を撮った。
「私も綺麗に全部飛んでいきましたよ!」
蓮を見てにっこりと笑ったキョーコもその中に納まった。
蓮もキョーコを見て、「綺麗に飛んだね」と、穏やかに笑った。
手に残った「がく」と「茎」だけになったタンポポを、キョーコはハンカチに丁寧に収めた。
「置いていかないの?」
「今日の、記念に」
キョーコはにこり、と、蓮に笑いかけた。
「じゃあオレもそうしようかな」
蓮も自分のハンカチを取り出して持っていた茎の部分をそれを包んだ。
「どう保存すればいいかな?」
「くきだけなので押し花にしたらどうでしょう?」
「そっか。そうだね。それで絵に付けておこうかな。じゃあ、君のをくれない?オレ、それを使って君を描いた絵に埋め込むから。水彩がいいかな、淡い色の色鉛筆もいいかもしれないね」
「いいですよ?」
キョーコはハンカチから再度取り出して、蓮にそれを渡した。
「ありがとう。オレのは・・・いる?いらなきゃここに置いていく」
「いります。英嗣さんと、交換」
「じゃあ、どうぞ」
今度は蓮の物をハンカチから取り出してキョーコに渡した。
「ありがとう」
蓮がキョーコの手の上にタンポポの何も綿毛もない茎を置いた。
まるで丸裸になったようなそれ。蓮が吹いたそれが手に置かれたことさえ、キョーコはなぜか、不思議な動揺があって、どこかくすぐったいようなむずむずするような気持がした。
「ここに四葉のクローバーがあればよかったね」
「幸運、ですか?押し花?」
「うん、それもあるけど。見つけたあと頭の上に乗せると、妖精が呼べるんだって」
「え!ほ、本当ですか?探します。絶対に探します。そんなので呼べるなら」
「四葉のクローバーの鉢でも買う?」
「ふふ、きっと、そんな手抜きはダメですよね。必死で探すからきっと妖精に会えるんですよ。王子様とか呼び出すには、十枚ぐらい探さないとですかね?」
「はは。どうかな1枚で十分じゃない?でもね、クローバーの花言葉には、復讐っていう意味もあるんだって。だから大事に扱うように、って言ってたよ?」
「!」
キョーコが急に固まってしまったから、蓮は脅かしてごめんと言いながら、携帯電話を取り出して調べなおした。
「復讐とか幸運とかもあるけど、でも、恋が実る、という意味もあるらしい」
「そうですか」
「気にしないで。見つけたら、妖精を呼ぼう?」
「どんな妖精が現れるんでしょうねえ」
キョーコはもう妖精の国の花園に立ちながら蓮にそう言った。
蓮は、すっかり佐保からキョーコに戻ってしまっているキョーコを見ながら、くすり、と、小さく笑った。
「じゃあ、パンダ撮りに行こう」
「はい」
蓮は再び当然のようにキョーコの手を取り、パンダ園の方へ向かった。
パンダを見て、かわいい、と、言って見上げるキョーコに、蓮は顔を緩めた。パンダを見ているのか、佐保であるキョーコを見ているのか分からなかった。
パンダの写真を撮り終えるとキョーコが、
「この動物園、ハシビロコウがいるみたいだから描きにいきたい。一歩も動かないから、描きやすいと思うの」
地図を見ながら行先の方向を指をさして、今度はキョーコが蓮の手を引いた。
蓮は嬉しそうに自分の手を引くキョーコに、その背中を見ながら表情を優しく崩した。
まるで本当に英嗣と佐保のようで、それから、久遠とキョーコのようで。深い嬉しさと、愛おしさと。この手が単なる「仕事か役どころ」なのかと思うと、その方がかえってまるで嘘のようで、不思議な時間だなと思った。
この手は、昔どこかで久遠の手を取った時のキョーコの手と同じだと思うのに。
嬉しくて、早くと急く手。
信頼しか感じない手。
ほとんど恋人同士の、手。
*****
写生を終えた二人は、少し冷えた手を温めるべくあたたかな飲み物を飲んだ。
「本当に、この一時間、ハシビロコウ、一歩も一ミリたりとも動かなかったね。そんな事が出来るなんて、世界最高のモデルだと思うよ」
と、蓮が笑って言った。
蓮が写生モデルをする撮影をしても、一ミリたりとも動かないのはさすがに難しそうだ。
「すごくかわいかった」
キョーコは満足げに蓮に笑顔を向けた。
「描いたの見せて?」
と言って、蓮はキョーコの背中側に立った。
描いた絵を見て、
「うまいね」
と、蓮が言った。
不意に顔がすぐ横まで来たものだから、キョーコは驚いて、びくり、と、動いた。
蓮が、そっと、とてもそっと、キョーコを抱きしめた。
キョーコの言葉を覚えているのか、触れるか触れないかのやわらかな腕の中。
「好きだよ」
と、耳奥に囁いた。
一時間集中して終わり、油断して完全に心が開いている時に、卑怯だわ、と、キョーコは思う。
「うん・・・」
佐保は言われ慣れている、はず。
蓮は、
「君は?」
と、問いかけてくる。言いなれない台詞のせいでキョーコは照れて困って
「私も」
とごまかそうとしたら、蓮は耳を寄せた。
プリーズ、と、指を耳に向けた。
「好き、ですよ、英嗣さん」
キョーコは名前を付けて、耳に囁いた。
蓮は、一瞬だけ、ぎゅ、と、キョーコを抱きしめた。
すっぽりと、蓮の腕の中に入ってしまい、キョーコの姿は誰からも見えない。
腕の中でキョーコは蓮の腕に頭を寄せた。
「先生に知られたら離されてしまいます」
「黙って」
蓮は目の前のハシビロコウと向き合い、同じように、五分以上は動かずにキョーコを柔らかく抱きしめ続けた。
笑っているように見えるハシビロコウに、じっと見つめられている気がした。
「今、この姿を誰かに後ろから撮っておいてほしい位。オレ、これなら描けると思う」
「ふふ・・・撮りましょうか?」
「オレだけを?」
「だって私はきっと見えないもの」
「やだ。君を抱きしめてる絵を描きたい。見えていてもいなくても、絶対違う背中になる。この抱きしめている腕と背中が絶対必要。いつもオレは君を描くけど、一緒にいるところだけは描いた事が無い。オレにはこの姿だけは自分で全体を見る事ができないから」
蓮は、そうだ、と、言って、
「誰かに頼めばいいんだ」
そう言うが早いか、蓮はキョーコを離して周囲を見回した。
不忍池の前で少し歩みを止めて、携帯をかざしたあと、遠くで風景写真を撮っていた人を見つけると、そこへ歩いていき、蓮の携帯電話を渡して、説明をしているようだった。
戻ってきた蓮が言った。
「そっちの不忍池で撮ろう。彼が撮ってくれる」
蓮に連れられて池のそばまで行く。
本当にやるの?と思いながら、すみません、と、撮影を頼まれたにキョーコはしとやかに会釈をした。
彼はキョーコに微笑まれて照れたように目を逸らしながら一礼した。
それを見た蓮がキョーコの手を少し強く引いた。
キョーコはこんな事にさえ嫉妬する英嗣である蓮を面白く思いながら苦笑いでついて行った。
デッキに上がると、池の全体が見渡せた。
鴨の親子が目の前を通り抜けたのを見て、キョーコが思わず、可愛い、と言った。
蓮は、お願いします、と、言って、彼に撮影開始を伝えると、再度腕の中に収めたキョーコに言った。
蓮は帽子とサングラスを取って、それをジャケットの内ポケットにしまった。
髪に手を入れて髪を両手でかき上げてとかして英嗣のように直した。
「さっきパンダやハシビロコウを初めて見た時みたいな顔をしてくれる?そんな顔を撮りたい」
「はい?いいですよ?」
ほぼ素のキョーコのくりくりとした目が、「なんだろう?分からないけどいいですよ?」というような目で見上げて、蓮に答えた。
蓮はキョーコの髪の先を少し引っ張った。
いたい、と言ったキョーコに、
「気を抜いたね、佐保」
と、英嗣というよりは蓮が、冷たく見下ろして言った。
撮影という言葉になるとうっかり撮影前の打ち合わせのような自分に戻ってた!と、思って、恥ずかしく思ったキョーコは、言われた通り、ハシビロコウを初めて見た時のように、ハシビロコウの代わりに近くにいる鴨の親子を指さして、「カモ!英嗣さん、鴨、可愛い!」と目を輝かせて蓮を見上げた。
英嗣は、佐保をただ、優しい目で見つめていた。
君の方が可愛い、そんな台詞でも言いそうな顔で。
蓮の髪が、風に吹かれて舞った。
キョーコは、綺麗だなと思って、その風に舞う髪先をただ見つめていた。
すると少しだけ顔を傾けて、
「後ろからでも、キスできるよ」
蓮がそう耳の奥へ言った。
驚いたキョーコを後ろから抱きしめながらキョーコのあごを指で少しだけ引いた。
唇の上にそっと一度唇を落としてから殆ど触れそうな位置で顔を止めた。
驚いたキョーコの硬直した体を蓮は抱きしめ続けた。
キョーコに、鴨を指さした手を下げる隙など無く、指を指したまま、蓮の、キスをしたいと誘う視線を受け止めきれずに、視線は蓮の唇まで落とした。
触れそうで触れない唇で、何度も蓮はキョーコの唇に触れたそうに誘った。
キョーコの腕は、ゆっくりと、下がっていった。
逃げたり、触れたり。蓮の唇にキョーコも少しだけ勇気を出して触れてみたり。
本来なら英嗣も佐保も、もっと、と、望み、触れるはずだ。
でも、蓮があまり触れてこないから、キョーコも合わせた。
蓮の唇を見つめるように薄目を続けた。
「オッケー」
そう言った蓮は、すぐに帽子を被り、サングラスをかけなおした。
キョーコから、すっと離れると、先ほど説明していた彼に礼を述べて涼しい顔で携帯電話を受け取った。
「仕事に必要な動画映像を撮っています。彼女との記念の日、という場面を撮ってほしいのですが」そう蓮に説明は受けていたものの、まさかそんな動画を撮るはめになって照れた高校生ぐらいの青年が、キョーコに向かって再度小さく会釈をして、キョーコも目を逸らしながら会釈した。
それを英嗣である蓮は気に入らなかったようで、少しだけ不機嫌になった。
少しでも佐保が英嗣以外の男性と心を通わせたら、英嗣は不機嫌になる。
キョーコは、「撮ってくれたんですから」、と、蓮をたしなめるように言った。
「今、映像撮ってもらった。さっきのたんぽぽも。動画を撮っておけば描きたい絵の所を止めて改めて映像から写真撮って、引き伸ばせば描けるから」
「・・・・」
キョーコは、こんな時、何と言って返事をしていいか全くわからなかった。
「英嗣さんとキスした写真なんて出てきたら、先生、お約束破ったって言ってお許し下さらないと思うんです」
そう切り返すのがやっとだった。
「あの人は分からないよ。絵を見てそう言ったとしても、写生した一つの風景だって言うもん。ここカップルがいつもたくさんいるって書いてあったし」
蓮は涼しい顔で問題ありません、と、言うような顔をして、撮った動画を見返している。
「先生が分からないとは思えません」
キョーコはそう言うのに蓮は全てを無視した。
「うん、いいんじゃないかな」
ほら、と、キョーコに見せた。
蓮がキョーコを抱きしめて、キョーコが、指をさした後、キスをした。
後ろからだと佐保の顔は見えないし、ずっと、キスしているよう。
「は、恥ずかしい、です」
「佐保の顔も、キスした顔も、彼には見えていないから安心して」
そして確かに、蓮が言ったとおり、キョーコを抱きしめる腕や、抱え込むような背の丸み、キョーコは見えなくても和服からのぞく伸ばした腕と袖は見える。
「描けると思う」
蓮の携帯電話の中に。
たくさんの架空の思い出。
キョーコは、その動画たちが自分も欲しいような、欲しくないような。
今撮った画は、強いオレンジ色の夕日がこちらを向いているから、逆光で、殆ど顔は分からない。二人のシルエット、蓮のふわりと舞う髪。
泣いてしまいそうなぐらい、綺麗に見えた。
「すごい、綺麗・・・」
キョーコは照れながら思わず見入って見つめた。
「写真を撮っていたからきっと、アングルを説明すれば綺麗に撮ってくれると思って。佐保もいる?」
「・・・うん・・・」
佐保なら限られた英嗣との触れた思い出はすべて欲しいはず。
欲望に勝てなかったキョーコは、佐保だから!と、心の中で言い訳をした。
「写真を引き伸ばす時にメディアに焼いておくよ。絵が出来たら佐保に」
蓮は携帯電話をしまって、そう言った。
「そろそろ帰ろうか」
蓮は荷物を抱えると、佐保の手を取った。
「借りたものをお返ししなければ」
キョーコは蓮に言った。
帰りに、パンダショップがあって、二人はつい足を寄せた。
キョーコがもふもふした柔らかいパンダのキーホルダーを二つ買った。
「英嗣さんとおそろいです。今日の記念に」
キョーコは、佐保なら英嗣とのお揃いを普通のカップルのように素直に楽しむだろうと思って二つ同じものを買い、そして、蓮に一つ渡した。
蓮はパンダのぬいぐるみをキョーコに渡した。
「よく親子連れの子供が持ってくるぬいぐるみだと思って。これを持っている親子にはいつもパンダを描くよ。佐保が見たいなら、佐保にも描くね」
「ありがとう・・・」
「気に入ってくれると嬉しいけど」
蓮はにっこり、と、笑った。
その顔は英嗣の顔ではない。
蓮が時々見せる、神々しいような、とてもやさしい笑顔。
「英嗣さん、顔が」
「・・・何か変かな、佐保さん」
「見たことが無い人の顔でしたよ。そんなに素敵な笑顔、私に見せてくださった事無いのに」
キョーコはにっこり笑って冷たい目を蓮に向けた。
「オレ、殆ど感情が無いように見えるってよくお客さんに言われるから。佐保にしか見せない顔」
蓮は、再度同じように、にっこり、と笑ってやり返した。
「・・・」
嬉しいような、照れるような。
佐保限定笑顔です、と、蓮は主張したけれど、物は言いようだわと思った。
キョーコは当たり前のように蓮の手を取った。
もう、周囲は真っ暗で、人の影が見える程度で、顔は殆ど何も見えない。
「英嗣さん、楽しかった、ありがとう、一日連れ出してくれて」
「どういたしまして」
「また、来たいな。あの、最後に、あのね」
キョーコは、少しだけ戸惑いながら、蓮を見上げる。
可愛いな、と、蓮は思う。
そう言って、キョーコは蓮を引き寄せて、一度、正面から体をぎゅ、と、抱きしめた。
「私だって、本当は、もっと、したいんですよ?英嗣さんの、補充」
正面から抱きしめたら、我慢できなくなると言ったのはキョーコだったのに。
蓮は、不意に抱きしめられた腕の中のキョーコを見る顔を作ることが出来なくなって、天を仰いだ。
「確かに正面は危ないね。今、オレが佐保を見たら、佐保は今夜きちんと部屋に帰れなくなると思う」
「ふふ」
蓮は、少し首を振り、困ったまま、言った。
キョーコは、蓮を動揺させることが出来て、してやったり、と、思った。
そしてさらに強く蓮を抱きしめながら、おかしそうに、嬉しそうに笑っている。
蓮は、ふぅ、と、一度息を吐きだして顔を整えなおして、キョーコを最後に一度、正面から抱き締めた。
2019.2.19